今日はどんな仕事をしてきたかについて。。

1月から週3日の仕事が終わりました。
週3日、通勤1分と好条件の仕事はありがたかったです。

大学を出てから、普通の会社の正職員を数社経験しました。

1つ目はシステム開発会社(株式会社マネージ:現在は台東区上野に本社)で
COBOLで軍人恩給システムを組んでました。
初任給は18万くらいだったような。。

2つ目はマスコミ(日刊ゲンダイ:現在も中央区築地)の
写真部でお局さまと事務方アシスタント。
彼女に何故かずっと怒鳴られていました。

ここでは外国通信社の英語翻訳、
プロ野球選手の写真、
国会議員の顔写真のファイリングをしてました。

当時、湾岸戦争が始まり、リクルート事件の裁判、
細川政権で国会議事堂や自民党本部に
カメラマンの撮ったフィルムを取りに行きましたよ。
バイク便が少なくて自分が走る・・古き良き時代でした。

フィルムや薬品の在庫管理、
カメラマンのスケジュール調整、出張予定のホテル手配。
カラーフィルム現像機械に薬品を入れてカラープリントもしてたなあ。

ここはお給料が年俸制で430万と20代の女子には破格によかったです。
でも卵巣嚢腫になって辞めました。

しばらく無職になって
3つ目は葬儀会社(さがみ典礼の芝葬祭センター)会葬礼状をつくり。
東芝ワープロで会葬礼状に合うフォントが入ったもので
ひたすら会葬礼状を作ってました。

エンバーミングという外科的処置でご遺体を生前のようにする
オーストラリアスタッフがいました。
あと当時めずらしかった光ディスクに顧客情報を入れてました。

4つ目は英会話学校(イングリッシュクラブ株式会社:埼玉県蕨市)の
総務企画ではがきのダイレクトメールと
A5サイズの駅前配布用チラシを、
Aldus社(アルダス)のページレイアウトソフト「PageMaker」で作ってました。
顧客管理はファイルメーカーでそれをエクセルに抽出して使用。
使用マシンはマッキントッシュIIciの古き良き時代でした。

私は英語と外国人が苦手だったため、外国人講師の採用の際に
「彼女をリラックスさせて英語を教える最終試験の生徒役」でした。
私、体と声の大きい人、生理的にダメなのです。

採用された外国人講師の住まいの用意で不動産巡り、
彼らが住むために必要な生活雑貨の買い出し&アルバイト事務員さんたちの給与計算。

仕事は多岐にわたってましたが、
ここはお給料がちょっと低くて生活はたいへんでした。
カード会社の督促の仕事をしたのはこの頃だったと思います。

でも大塚商会マッキントッシュの講習会を受講させてくれたので
パソコンの基礎知識を1993年に得られたのは大きかったです。


1995年に最初の見合いで結婚後は派遣で仕事をしました。
当時派遣の時給は1300〜1500円くらいでしたのでせっせと働きました。

諏訪市エプソン関連会社(当時、テクノクリエイティブズ)で
Windows95を与えられ、
当時インターネットホームページを作るためのHTMLを
秀丸でベタ打ち入力してました。

ブラウザは懐かしのネットスケイプ。
ここでPhotoShopでの画像処理、
エンボスなどのフィルタリングについて勉強しました。

現在CSSとなってますが、
当時、私はtableタグで各種ブラウザで
くずれないデザイン構成を考えて作ってました。

現在アルバイトさせていただいている
スマートワークス株式会社社長の酒井美里氏とはここで出会いました。
ご縁に本当に感謝です。

その後、県の諏訪地方事務所でダム課の臨時職員してました。
当時、田中康夫知事になって「脱ダム宣言」をして、
やろうとしていたダム計画が白紙状態に。。
私はさっさと仕事を変わりました。(^^;)
田中康夫知事は私には謎でしたね〜。


長男出産後、諏訪市内の専門商社の派遣社員をしました。
ここは前社でお世話になった派遣会社さんからのおすすめでした。
当時諏訪界隈・・エプソンにも不況円高の波が押し寄せ
派遣切りがあるかもしれないのでこっちをどうぞと。
実際に派遣切りはあったので私はとても幸運でした。

こちらでは株式公開企画準備室で
株式公開についてのデータをSMBCさんの指示の元で作成してました。
会議の音源から原稿を起こしたり、指定書式でレジュメを作成したり。

親会社のユアサ商事から部長さんがきて、
その方の秘書業務もありました。
時給もよかったです。
ところが、景気悪化で株式公開は一時見合わせ。

契約満了でやめたところに、
「ここはどう??」と友人に声をかけていただきました。
声をかけていただいたのが
当時JA諏訪湖の共済のシステム周辺の臨時職員。
時給は半分になりましたが、(号泣)
子どものいる私にはとても優しい職場でした。

お局職員の宝庫でしたが、入って1.5年で
JA諏訪湖は隣のJAに吸収合併され、
JA信州諏訪になりました。

私は共済本所の部長さんの下へ。

最終的によい方に囲まれて
今の夫と再婚して、次男を妊娠してしばらくの間
楽しく仕事をさせていただきました。

そして二度目の出産から5年後、
家から1分の木曽森林管理署にどうでしょう?と
ママ友達から言われてハローワークへ。
パソコン操作が普通で家庭の事情の転勤のない方を求めていたようです。

私は林業や上松、木曽の知識はありませんでしたが、
A0サイズのプロッターを動かしたり、
イラストレーターCS4で図面の編集をしたり、
エクセルのマクロで数字の抽出をすることは久々に楽しかったです。

1日6時間週3日という勤務条件は
要約筆記をやりたい私にはうれしかったですね。
フルタイムではちょっとムリ。

お国の仕事は初めてでいろいろな発見がありました。

独自システムが良くできている。システムは大事です。

特に図面が命な林業
現在はGPSもあるし、
航空写真もあるので精密な情報を現地を確認しなくても
ある程度は見ることができます。
ただ最終的には現地です。

私にもう少し林業に興味があればよかったかもしれませんが
イラストレーターCS4を使えるようになりました。
高価なソフトなので個人では買えませんので
とてもありがたかったです。

林業系の数字の部署だったのでエクセルは必須。
マクロから抽出から演算からこれもよい復習となりました。

国家公務員の若い子(20〜30代)は、
やはり公務員試験に合格してくるので
話をするとしっかりしてるし、
パソコン操作も電話応対も含めて高レベルです。

専門もあるので職員は研修も多くて
ハードですが、せっせと仕事をしてたなあ。

震災後の被曝線量の高い福島県
復興庁からの出向で旅立った方もいました。

マスコミや一部の方の公務員叩きなものもありますが、
転職が多い私からするとブラックでヘンな方は民間に多いです。

人間の嫉妬が一番怖い・・最近妙にそこを感じます。